雪組・日本青年館「サムライ」をみる。
原作は、月島総記「巴里の侍」。
観劇前に読もうと、昨年末、八重洲ブックセンターで注文し購入する。
一見小説でないような小説である。読みやすく一日あれば読める。
第一感は、「これは宝塚に向いている。」
前田正名は、宝塚トップスターが演ずるに足りる主人公。舞台がパリ。華やかなフランス貴族の登場。歴史上の人物として坂本龍馬も登場させることができる。娘役トップのマリー。二番手役の渡会や、フルーランス少尉、モンブラン伯爵、役回りとしては敵役のレオン少佐、市民兵の群舞の場面も想定されるし、男同士の友情と、そこはかとなき正名とマリーの愛。
まあ、宝塚としては原作からあまり悩まずに作品がつくれそうな展開だ。
とそんな思いで初日を観る。
いつも宝塚はほめるに限ると考えている私だが、たまには厳しく少し言いたいことを一言二言率直に書いてみようかとも思う。
まず簡単に原作から舞台は作れるのだが、逆に実話であるだけに、脚色に制限があり、それが足かせとなっているというのが、見た限りの第一印象だ。正名自身があまり知られた人物ではない。思想的な背景を持ってパリコミューンに参加したわけでもない。マリーとの愛も、成就できずに悲壮な最期を迎えたわけでもない。
それぞれが、激しい時代の流れとともに、その激しい人生も終息し、物語が終わった後の半生が落ち着いたところに落ち着いた事実がある。
青年館で成功した「舞姫」は森鴎外の実体験に基づいているストーリーでありながら、やはりあれは小説である自由さがある。トルストイの「復活」や、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など、これらの名作は、時代背景とともに深い内面の葛藤を描くというような深みを持っている。また、「誰がために鐘が鳴る」や「二都物語」なども、名作としての時代背景やストーリーの説得力がある。
となると、正名の、普仏戦争やパリコミューンへの参加が、原作と離れてもよい、創作でもよいから、マリーへの激しい愛とするとか、プロシャへの特別の憎しみがあるとか、何かもっと激しい必然性を描いてほしかったと感じてしまう。
日本人、東洋人として、西洋人を見返してやりたい、騎士道と共通する武士道だけではやはり説得力に欠けると思う。特に渡会との対比で突き抜ける感情が正名にはほしい。
さて、全般に歌が低調である。もう少し聞かせてほしい。
音月。舞羽。共に好演といってよかろう。トップの役割は果たしている。あとは先に述べた本自体の問題だと思う。
渡会の早霧せいな。渡会は、無頼漢で、乱暴な、男くさい野人である。もちろん心の奥底には優しさも持ってはいるだろうが、もっともっと表面的には泥くさく、男くささを出す努力が必要である。早霧はちょっときれいすぎる。それが宝塚といわれてしまえばおしまいであるが。
二役の緒月遠麻。坂本龍馬は雰囲気がよく出ていたと思う。フルーランス少尉はあくまで軍人。もう少し姿勢を正しくピシッとしてほしい。
レオン少佐の大湖せしる。ロメオとジュリエットの愛と死のきれいなダンスシーンで目に留まったが、今回の敵役は、国家の権力と権益と保身と民衆に対する抑圧の象徴であり、民衆の憎しみの対象を一手に体現する役である。それにしてはやはりそのセリフにもその迫力はなく、やはりきれいすぎる。
宝塚は美しくなければならないとは思っているが、やはり美しい中にも役どころの厳しさ、汚さは演技力として要求される。
まだまだこれからであるので大いに精進してほしい。
さて初日。組長の飛鳥裕さんの挨拶に続いて音月桂の挨拶後、鳴りやまぬ拍手で、最後はスタンディングオベーションとなった。
前田正名に連なるご家族の方々が客席で飛鳥裕さんからのご紹介を受けた。
宝塚と深からぬ縁ということもあって、ますます脚色・小説化は難しい作品と感じたが、私自身はこのような歴史ものが大好きであることを最後に付言しておこう。
お疲れ様でした。
シゲニー・イートン