「当事務所の中にも、女優さんがいる。夏休みを利用して、舞台にたった。
なかなかのものである。先日その舞台を観た。
「やすこ」役の「岡本弘実」。
ふだんはシティユーワのチームリーダーでしっかり仕事をこなしている人である。
「すくらっち」特別公演 夏のバッキャロー!! 2007年8月5日
劇薬混入団「すくらっち」特別公演「夏のバッキャロー」を観た。心暖まる作品である。
格差の広がる時代、農村でも根強いと思われた地域社会が崩壊に向かいつつある。すでに地域社会が崩壊しきっている都会では、勝ち組といわれる層にもきっとこころのどこかに何か満たされないという心の空洞があるはずだ。
この舞台はそんな時代の長野県のある小さな町の夏の帰省のシーズンのひとこまだ。舞台は最初から最後まで自動車整備の町工場。このセットがいかにも田舎くささと帰省時期の郷愁のような雰囲気をかきたて、開演前から強烈なメッセージを送っている。高校時代に両親を亡くし、妹と共に父からの工場を受け継いで働いている等身大の青年「岡田大和」。10何年ぶりに東京から帰省したエリートサラリーマンの「ばっし」(石橋)。故郷の父母の病気にも音信もなくいきなり帰郷した「ばっし」に、のっけから「大和」の手拳が飛ぶ。ドキドキハラハラする展開だが、いまどきの世相の暴力のレベルで理解はしてはならない。この手拳こそが、学校時代から太い絆で結ばれていた青年たちの非難や怒りのストレートな表現であり、コミュニケーションの手段なのだ。正直でお互いにぶつかり合うコミュニケーションの素朴な手段が、お互いの理解によって昇華されて行くこのような人間関係は、この世の中からだんだんと失われて行くものだ。それもまた、懐かしさや、疎ましさや、それぞれの心の距離感を持ちながら故郷と付き合ってきた多くの半都会人たちの心のどこかで求めている郷愁的な人間関係でもある。さらに交通手段の距離感の近まりにより、故郷すら同化して喪失して行きつつあると感ずる人たちの懐かしさでもある。しかし今の時代であるからこそ、心のどこかで失くしてはいけないと叫んでいる「何か」に違いない。
多くの戦後生まれの日本人が心のどこかに抱き続けている原風景。素朴であったかな家族や友情。そんな原風景の再生を、過疎で廃止された「花火大会」の再興に収斂させていくのがこの舞台の展開だ。
作者は、「大和」、「ばっし」、に加えて、家族がいて自転車で健康食品を売って歩いている「けいすけ」、気弱で謝ってばかりいる市役所職員の「ひろし」、無職で金と女で問題を起こす「もも」、ちょっと都会で働いた雰囲気を漂わす「やすこ」、主婦をやりながら町の劇団をやっている「ゆうこ」、飲み明かすのが好きで力強く生きているスナック経営の「さなえ」、給食センターで働く「けい」、これらの登場人物のすべてがどれもまた等身大の地方の男女たちだ。ここに大和の妹「あやこ」と「ひろし」の愛情がからむ。
これらの登場人物は、比較的うまく個性が書き分けられ、ストーリーの展開も見ているものを飽きさせない。自分を不治の病と勘違いし気弱で謝ってばかりの「ひろし」と「あやこ」のやり取りも楽しいし、みんなの妊娠と思われる勘違いによるどんでん返し。金と女で問題を起こすばかりと仲間から考えられていた「もも」が、実はお尋ねものではなく、その遊び?の愛の中に実は真実人を救う力があったというどんでん返し。仲間の原点になった「花火」を見る「秘密基地」を本気で再建し、花火大会の復活を本気で準備していたのは実は仲間から一番いい加減な生き方をしていると思われていた「もも」だというどんでん返し。そして東京でエリートサラリーマンと思われ、やすこをはじめ仲間の女性たちから一番かっこよく生きていたと思われていた「ばっし」が実は会社を辞めてきていたというどんでん返し。工場の土地をスーパーに売却する決断をしながらその一部を花火大会の資金にしようと考えた「やまと」。そして退職金を残して去る「ばっし」。みんなのこころのよりどころである岡田自動車整備工場の土地は残る。でもなんで皆自分の生きる大切な糧を犠牲にしてまで協力するんだ。「バッキャロー」と。
舞台は100人入ればいっぱいの小劇場での三日間の公演。演じる役者さんも多くはほかにも職業を持ちながら芝居が好きで好きでたまらない人たち。あったかいこの本のテーマは観客にはきちんと伝わるし、「あやこ」と「ひろし」のやりとりなど、あやこ役の好演もあって、観客を適当に笑わせながら舞台を締めている。「やまと」と「ばっし」の中盤のやり取りなど、感動する場面も作られている。総じて、誰がスターでもない、登場人物もスターがいない等身大の仲間たち。それでいてそれなりに皆好演している。もう少し多くの人に、もう少し長めの公演でみてもらったらいいのにと思ったのは私だけだろうか。
シゲニー・イートン