「まっどのそっと♪がいろじゅっが♪うっつくしいぃ♪
ドッアを♪ あっけ♪きっみがくる♪きがするよ♪」
ガロの「学生街の喫茶店」は、私たち団塊の世代が学生のころになじんだ歌である。
キャンパスの近くには多くのサテンがあり、一杯の珈琲で何時間も議論したりした。
窓から通りを行き交う人を見通せるサテンも多かった。
暑い夏は涼を求めてサテンに入り、
寒い季節はこすりあわせた両手でカップを包んで珈琲をのんだ。
そしてその時々の音楽が流れていた。
学生達が恋人を待つのも喫茶店だった。
なかなかこない彼や彼女を待ちながら、ひょっとしたらこないのではないかと
そこにいない相手の心の中を探しながら少しづつ大人になった。
文学書や思想書を片手に、学生達の文化が息づいていた。
サルトル、ニーチェ、スタインベックなどがそこにいた。
今は、ドトール、ベローチェ、スターバックス、
ひとりカウンターに座り、手には携帯。
刻一刻のメールのやりとりで相手の心の微妙な揺れに心を動かす暇もない。
窓の外に見える「街路樹」の「木肌」や「葉っぱ」をじっと見つめることもなくなった。
街路樹を見ることのできる喫茶店は少なくなった。
ゆっくり座って見ることができない時代ならば
この走り続けてきた昭和から平成の20年を振り返り、
街を歩くときの、歩みのテンポを少しゆるめて、
歩きながら、せめて、ゆっくり歩きながら
街路樹の木肌と葉っぱを見て行こう。
今の大不況を、マネーゲームに酔った金融システムや、
資源や地球環境の大切さを忘れた消費社会への天の警告ととらえ
それにあわせて歩もうと決意さえすれば
何ら慌てふためくことも嘆くこともない。
ゆっくり歩めば、この東京の街に逞しく生きている街路樹が見えてくる。
季節の移り変わりを楽しむように。
皇居のお堀のまわりの歩道には、ゆりの木、やなぎ。
その元にはアゼリア。季節には美しく咲き乱れる。
ゆりの木はまたの名を半纏木。
今は落ちてしまった、そのユニークな葉っぱの形がまさに半纏。
霞ヶ関の裁判所の前の通り。
泥臭い大きな幹と大きな葉っぱ。
重い鞄を持って行き来するひまわりのバッチを見下ろしている。
栃の木。
そして同じく霞ヶ関の法務省の前。
まだ若い楠の木がならぶ。
そして丸の内の私が執務する部屋の窓の下に見えるのは、とうかえで。
今は、葉が落ちて丸裸。
葉っぱがなくても、木肌と枝の形がそのしるし。
毎日の客待ちのタクシーのガスのせいか
少し病んでいる。
向かいの三菱商事のビルの前にはあまりみかけない、シマトネリコ。
この年の瀬も緑の葉を保っている。
交差する仲通りのけやきには、イルミネーションが灯る。
鍛冶橋通りには、東京のシンボルのいちょう。
さすがに黄色の葉も落ちた。
そして、プラタナス、アメリカふう、などなど。
みなさんも、ちょっと街路樹に目をとめて、
緑を育て、環境を守りながら、
2009年新しい年を、新しい発想で、未来志向で迎えましょう。
シゲニー・イートン